先月に引き続き「お見舞いのベットの横ではどんな会話が望ましいか」をお話ししましょう。 私の入院の経験から申しますと病気の重い軽いに関係なく、入院していると他人の言動に対する感性が非常に研ぎ澄まされてきます。ちょっとした一言や振る舞いが良きにつけ悪しきにつけ強く心に響きます。自分が健康で毎日を楽しんでいる話は、まあ禁句でしょう。配膳のおばさんのてきぱき?とした動きさえも羨ましく感じたりします。お見舞いに際し先ず大事なことは「常に聞く立場を守る」ことです。この原則に沿って会話をすすめれば相手を不快にさせることは無いでしょう。 逢うやいなや堰(せき)を切ったように話を始める病人がいます。思い出でも愚痴でも聞いてもらいたくで我慢していたに違いありません。静かに聞いてあげましょう。逆にあまり喋らない人がいます・・・今喋りたくないんです。・・・でもお見舞いにあなたが来てくれたことがとても嬉しいのです。無理に話し掛けることはありません。傍らで本でも読んでいましょう。お見舞いに長居は遠慮せよ、と申しますがある程度元気になった時期は傍らにいてくれるだけでも慰めになります。1日1回の先生の回診、看護婦さんの体温計り以外会話がないのですから人恋しいのです。 先に述べたように感性が鋭くなっていますから・・・特に不治の病床にあっては「生死観」の話題などにはとても難しい対応に迫られます。人間は誰でも生に限りがあるものだ・・・と、見舞いを受ける立場の人が言うならともかく、見舞う方が言うべき言葉ではないでしょう。17年前私の入院・手術の際は主治医から相当厳しい告知を受けて・・・ひそかに医学書を読みあさりましたらそのとおりでした・・・覚悟しました。家族には詳しい話はせず遺言状だけを書いておきました。心のこもった慰めの言葉さえもその頃は何となく・・・健康人に対するひがみからでしょう・・・空しく響きましたし、さりとて宗教的(仏教、キリスト教・・・)な話題も個人毎に受け留め方が異なる訳で、あまりしっくりとこなかった憶えがあります。 しかし、あと数年といわれた私が17年後、こうして何とか元気で仕事をして居られるのを思う時、「天の大きな手」・・・それが神・佛でしょう・・・を感ぜずには居られません。しかし、これは後に判ったことで、当時はとても理解する心境ではありませんでした。また、私を気遣って下さった多くの方々への感謝の念は常にあります。いつの間にか「お説教調」になってしまいました。これはいけません・・・「聞き役」が大事です。何といっても病床にあっては直接来院してお見舞いしてくれる、こんな嬉しいことはありません。せっかく行くのですから病人にとってお見舞いが充分な癒しになりますように気配りをしましょう。 私の経験を交えて書きましたので少々独善的な部分もあるやと思われますがお許し下さい。いいですか、上手な聞き役に徹することがおすすめです。
院長 菅家 元
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